プロフィール

木室ミエコのあゆみ

漢方薬は、「高価な上に、長く飲まないと効果がない」と思われがちです。
しかし、古典からの正しい知識、また、それを現代人に合うようにアレンジしてこそ、
本来の漢方薬を体験することができるのです。
このことを裏付ける私自身の実体験と、主な経歴を紹介しています。

 

西洋薬局に就職

働きながら大分商工会議所での講義で医療事務資格を取得しました。
当時の受講料は38,000円。実際には、看板商法でした。仕事先の斡旋が条件でしたが、

60人中4~5人しかいない合格者に対して仕事先は無し・・・という状況。
合格できた私は、二十歳で寿屋の本店(佐伯店)1号店の薬局に就職することになりました。

 

その後、薬種商(※注:1)の資格(薬店 ドラックを開店する資格)を独学で取得しました。
寿屋は、土曜、日曜は大変忙しく、売上のピーク時です。
土日の講義を休むわけにはいきません。
その為、薬種商の講習を受ける事は断念し独学する事にしました。
テキスト代10,500円、48都道府県の薬種商の試験問題集の5年間分を丸暗記しました。
化学薬品見分けテストでは 自宅の食卓テーブルの上に50品目の化学薬品を並べ

毎日見分け、色・臭い・形での識別テストに対応しました。

(化学、物理は普通科での授業が大変役立ちました)

 

当時の大分吉村薬品(現在はアステム)の薬専部の部長さんより、
「わが社に薬種商の講師がいます。何時でも貴方の都合の良い時にきて勉強して下さい」とのこと。
おかげさまで、受講料40~50万円が回避できました。
部長さんには大変感謝です。

 

その甲斐あって、ストレート1回目で資格取得です!

 

突出した好成績と言う事で県から直接に実家や私の職場に電話通知がありました。
この時 「医薬品を扱うこの仕事こそが私の天職」と思いました。

 

※注:1この「薬種商」試験の難易度は、登録販売者試験よりかなり難易度の高いものでした。
薬種商は戦前から続く歴史の長い資格です。
ウィキペディアによると、全国の薬種商の数は、平成9年(1997年)の時点で

17,600余名だったそうですが、平成20年の第一回目試験以降、

わずか2年余りで登録販売者の数は約96,000人にまで達したそうです。
これは、実務経験の年数が緩和されたことと、試験の難易度を和らげたことで

合格者が爆発的に増えたことが影響したようです。
このことからも、薬種商試験のハードルがいかに高かったかが、お分かりいただけると思います。

登録販売者との知識の深さが格段に違うのはその為です。

 

その後 店長として5年間従事しましたが

根本治療することが難しい「西洋薬の対症療法」の壁にぶつかりました。
病は、全て臓器の機能低下よりおきるならば、体が自身の病を立て直すことができる

「臓器を健康にする薬(体の治癒能力を高める物)」が欲しい。と強く思うようになりました。

 

漢方の先生との出会い

西洋医学は対症療法でしかない行き詰まりを感じていた頃の昭和58年(1983年)

台湾の漢方の先生に出会ったのです。

きっかけは、私が住んでいたマンションを先生が買い上げた為のご縁でした。

 

先生から「お宅は、なぜ漢方薬を扱わないのですか?」と聞かれ、
私は「漢方薬は効きませんので」とお答えしました。

 

すると先生は
「いいえ、漢方薬は効きますよ。西洋薬の注射より早いですよ」とおっしゃるのです。

 

初めて漢方薬のすごさを実感

当時の私は、朝8時から夜遅くまでの残業続きで、

日々栄養ドリンク(1本:1,500円)に頼る生活を送っていました。
その結果 体を冷やし過ぎ、朝もなかなか起きることができず、すぐに疲れてしまう・・・。
便秘もひどく、便秘薬を服用し、同時に浣腸も使用するのですが効きません。
生理となれば悲惨です。
大きなレバー状の血の塊と共に大量の出血の為に暗記力も低下していく。という状態・・・

 

先生は問診で、私の症状をつかみ、漢方薬を処方してくださいました。
先生が、ご自宅用に台湾から手持ちした漢方薬でした。

 

それまで、大音量の目覚まし時計が耳元で30分以上鳴り続けてやっと起きる生活が、

処方後に一変したのです。

お昼に1包み、夕方1包みの服用結果です
翌朝、一瞬の音で飛び起きることができるようになり、

身体もだるくなく、大便がスムースに出るようになりました。
「漢方薬はすごい」今までの考えが全て変わりました。

 

漢方のスペシャリスト

漢方薬の速効性と、その効果に驚いた私は、先生に次々と質問しました。
「口内炎はなぜ起きるのですか?」
「口内炎は横隔膜の熱性からです。」
「膀胱炎はなぜ起きるのですか?」
「膀胱炎は腎臓 膀胱の熱性からです」
先生の答えはすべて納得のいくものでした。

 

実際 水がしみて飲めない酷い口内炎が漢方薬1包みで、5分以内に水が飲めるようになったのです。
曇った空が晴れていく感じでした。
その時、西洋薬は全て捨て、先生に弟子入りする決意をしました。

 

台湾の方は何をするにも 運命計算を基に行動する

先生は言われました。
「漢方薬は是からの時代、西洋薬にとって代わる素晴らしいものです。
漢方薬の製造メーカーとなり、世界に販売していきましょう。
日本の漢方薬事情を知る。その為にはまず、漢方薬局を作る事から始めましょう。」

 

しかし、漢方薬の製造メーカーとなり世界に販売すると言う目標は
日本の薬事法の厳しさでは到底不可能で実現できませんでした。
薬局製剤製造が限界でした。

 

私の生まれた年・月・日・時刻 4本の柱を基に四柱推命で運命計算
顔で人相学、体型で骨学、手相これら全ての条件が揃わなければ運命計算は合致しません。
運命計算通りであるか確認の為に運命計算をして下さった先生に会う為
私の付き添いの方と3名で台湾まで行きました。

 

貴方は仕事のパートナーに億の単位で稼がせる人です。
又、運命上私の親に当たり私を育てる人です。
漢方薬は誰にでも教えられるものではありません。
お金稼ぎや人を支配する為に利用したりする人もダメ。
漢方薬を学ぶ事に熱意を持ち、漢方薬を深く理解し、
正しい知識を身に付けなければ、副作用を発生させ人殺しをする事になります。
貴方の運命は、私が長年探し求めていた人です。
一緒に事業を起こしましょう。

 

猛勉強の日々

漢方の知識を習得するため、漢方薬に全てを捧げる日々が始まります。

 

先生は膨大な漢方の知識を1年で覚えなさいという、非常に高いハードルを私に与えました。

 

日本の漢方書は翻訳違いしています。その為に効かないのです。
日本の本は一切使用せずに、北京語の古文体の原文で勉強しました。

 

先生は日本においての事業は賃貸ビル業でした。
朝8時~午後5時迄従事しながら、
平日は午後5時~午後8時迄、北京語の古文体を翻訳して下さいました。
先生の言葉をテープに録音し、帰宅後ノートに記載。

まとめた文章を自分の声でテープに録音、

仕事以外掃除中、食事中、入浴中、歩行中~就眠迄

録音したテープを聞き暗記する日々を繰り返しました。

 

それから、まさかとは思いましたが本当に1年後には、

清川名店街ビル(福岡市の都市開発第1号ビルです)1階玄関に、店を開局です。
オーリン漢方専門薬局として、先生と10年間共同経営しました。
その後、平成5年9月に独立。漢方薬局を開局しました。私が38歳の時でした。

 

台湾華僑の厳しさ

先生は薬局、建築業、宅地開発と事業を発展させた方でした。
台湾の第2の都市、高雄市内が畑だった頃からの開発者です。
当時、高雄で5本の指に入ると言われていたそうです。

 

ベトナムがカンボジアを侵攻した際、一斉に財力の有る方や、

外国で事業する能力の有る方々は台湾から脱出しました。
台湾は独立していない国、中国が台湾を侵略すれば財産を全て没収される

「共産党は財産を認めない」という事で世界各国に脱出しました。
高雄駅周辺の土地も、破格の安い価格で叩き売られ、先生は日本を選んだのです。

 

先生から「貴方は経済観念が無さすぎます。今日から月10万円ずつ財形貯蓄をして下さい。

そして、共同出資で会社を作る際の事業資金を溜めて行きましょう。」

 

当時、手取り15万円の給料から財形貯蓄10万円の苦しい捻出です。

家賃は寮費として1万円。生活費4万円です。1杯150円のお金が惜しくて飲めない。

この時のみじめな思いは その後の頑張るバネになりました。

 

この状況を見て先生は、私に仰いました
「いいですかミヱコさん 種を植えるでしょ。芽が出て葉が2枚出るでしょ。
この時に、この一枚を食べたくなる。
でも成長する時に、この一枚がなくなると大きな打撃になります。

 

木が大きく成長し、葉が茂ればその時に食べられます。
逆に大きな枝は切り落とさないと成長を妨げます。
その時に、いくらでもお金は使えます。

 

少しのお金が溜まった位でお金を使うのでは無いのですよ。
木が大きく成長する迄待ちなさい。
あらゆる最悪の事態を考えて事業を運営しなさい。
人は最良の事を考えて事業を運営するから失敗するのです。」

 

私は、その教えを胸に刻み、毎日仕事に励みました。

先生の賃貸ビル業の空室対策として、社長は家賃を下げ 部屋の案内を

不動産任せにせず 私(木室ミヱコ) 自ら部屋を案内し、

空室率50%以上の物件を一年で2%以下にまで下げることができました。

 

漢方薬局を開局してからは、日々薬局の現金収入がビル運営に大きく貢献し、

管理するビルの数を増やしていきました。
バブル時だったこともあり、ビルを購入しての売却利益はとても大きく、

なかでも薬局を開局する為に購入した清川名店街ビルの店と倉庫、

住宅の売却利益も大きな収入でした。

 

ある時、先生から
「貴方のお蔭でこの10年間、私は10億円稼がせてもらいました。有り難う、もう独立して宜しいですよ。

でも、今の薬局のお客様は一人として貴方のお客様として連れて行かないで下さい。」

 

先生との共同経営を経て、私は事業者として沢山の事を学ばせて頂きました。
会社の売り上げ利益もしっかり持ち株数に応じて支給して下さいました。
お金に対して『心が美しい、ズルさの無い』大変な紳士でした。
この先生に巡り会わなければ、今日の私は有りません。
大変感謝しています。

 

お客様からの電話

平成5年に博多駅前3丁目生活金融公庫の隣りの博多駅前SSビル1階に
オータニ漢方薬局を開局
開局にあたり、お客様は0からのスタートです。
開局からの半年間は赤字続き。
この時、事業は博打(ばくち)と同じと言う怖さに気付きました。
成功しなければ 投資したお金は全て0です。

 

お客様が口コミして下さったり 車で連れてきて下さる。
本当に助けられました。
お陰様で 半年後黒字となり、お客様には大変感謝しております。

 

開局から5年目に結婚。
9年目に主人の母の介護の為に、化粧品部門だけを残し閉局する事にしました。
電話番号が同じだったため、閉局してからもお客様からの電話が鳴りました。
「脊柱管狭窄症で動けない・・・」
「脊柱管狭窄症で姉が動けなくなり 私の自宅にあずかっています」
「社長が劇症肝炎です。社長が入院して仕事ができなければ会社は潰れます。どうにかしてください!助けて下さい」

 

大変な苦しみを抱えたお客様の電話を受けた私は、

家族や知人、友達が病気の時の為にストックした自宅用の漢方薬をプレゼントすることにしました。
日に日にそんな電話が増えていきました。

 

再出発のきっかけ

そんなさなか、弟の死に直面します。
大きなショックと悲しみ。
親より先立つ親不幸。

 

弟の為の追善供養は病気で苦しんでいる方々に健康になって頂く事。
皆様の感謝の心が弟の追善供養になる。
それが私の使命だと強く感じました。
店舗探し、資金づくり、主人と二人で協力しながら。
そして、弟の死から5か月後の平成17年6月には、漢方薬局を再開できました。
それからも、毎日夜遅く10時、11時まで漢方のブログを書き続けました。

 

4年と半年で現在の店舗に引っ越し、同時に株式会社組織に変更しました。

 

これまで、あらゆる病と向き合いながら、
お客様の「健康になりました」というお喜びのお声を楽しみに
日々、漢方薬の知識を深めています。
これからも、多くの方のお役に立つことができれば幸いです。

 

ラジオ出演情報

【番組名】「ミー先生に聴く漢方のお話」
【放送局】  FM コミてん
【放送時間】 毎週月曜日 13:00~13:25
【周波数】 77.7MHz
【カバーエリア】 福岡市中央区&隣接する区の一部

 

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